韓国戦争(朝鮮戦争) |
休戦協定
韓国戦争(朝鮮戦争)

韓国戦争が終わってからもう半世紀も経ったのに、まだも韓半島は軍事分界線を境にして韓国(南韓)と北朝鮮両側に分けられ対立しており、
その傷跡もたくさん残されています。特に、楊口郡から高城郡に至る非武装地帯には楊口郡の東部戦線 パンチボール戦跡地、第4トンネル、乙支展望台、
高城統一展望台などの緊張と対立の歴史現場として自由と平和の重要性を感じらせるところです。
北朝鮮は1946年6月米国が駐韓米軍を撤収に続き韓国と台湾を極東防御線(アチソン・ライン)から除外すると韓国を共産化させるため1950年6月25日未明4時に38戦全域にわたり奇襲侵略を強行しました。

韓国戦争(朝鮮戦争)が勃発してから3日後はソウルまで陥落され、釜山を除いた韓国の全域が1ヵ月の間に共産軍に占められました。そこで、国際連合(UN)は韓国戦争に参戦を決議し、マッカサー将軍の指揮下で参戦して戦況をひっくり返しました。
 戦争というのは最悪の悲劇です。特に韓国のように同族戦争においては、言うまでもありません。1953年7月27日、悲劇の韓国戦争は休戦協定により一段落しました。しかし、3年にかけての戦争により全国土は焦土化されるほか人命の被害が大きかったです。韓国軍とUN軍(16ヶ国)との犠牲者が48万人、北朝鮮軍側が150万-200万余人であり、民間人の犠牲者も全人口3千万人の15%に当たる450万人にのぼるそうです。
 また、戦争中に100万人の北朝鮮の住民が韓国へ越えてき、370万人の子供達が父母を失ったため、1千人の離散家族が発生し、今までも望郷への恋しさや再会の日を待ち焦がれながら涙の日々を送っています。
休戦協定
 1950年6月に始まった韓国戦争は、開戦後1年の1951年6月23日、ソ連軍代表が国連放送を通じて休戦を呼びかけたのがきっかけで、休戦会談は同年7月10日から開城で開かれて以来、休戦条項をめぐる双方の意見の対立から何回かの中断を繰り返し、会場も板門店に移して続いてきました。
韓国戦争の停戦を目的に53年7月、北朝鮮軍と中国人民志願軍、国連軍(UN軍)の3者が板門店で調印しました。南北の軍事境界線と非武装地帯の設置、軍事休戦委員会の構成などを規定しましたが、休戦に反対する韓国は調印しませんでした。このように両軍合わせて数えられないほどの死傷者を出した戦争は一応終結しましたが、韓半島(朝鮮半島)を軍事境界線を挟んで南北に分かれた状況は今なお続いています。
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