
1983年から3年間10億ウォンをかけて造成した清風文化財団地は、忠州湖の山頂に位置しており、忠州ダム建設事業によって水没する運命にあった多くの景勝地をこの清風文化財団地に移転しました。団地の面積は1万6,482坪で巨石文化を一目で見ることができる先史遺跡から寒碧楼、錦南楼、八詠楼、凝清閣、清風郷校(高麗中期から朝鮮末期にかけて、郡ごとに設けられた学校)、古家などの多くの文化財が展示されていろので昔の先祖の存在を感じることができます。

先史時代以来肥沃で優れた景観を持つ南漢江を中心に多くの部族国家が建国されました。三国時代(57 B.C. - A.D. 668)には高句麗と新羅がこの地域をめぐって激しく争ったところでもあります。特に、清風は新羅時代には南漢江上流に巨大な古代都市がありました。
 高麗時代(918-1392)には郡に昇格され、朝鮮時代には都護府(高麗・朝鮮時代の地方行政区域)に昇格されました。南漢江の水流を挟んでいるので水路が発達、自然・商業の中心地だったのでたくさんの文化遺跡が残されています。
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 しかし、忠州ダム建設事業に伴って、文化遺跡が水没の危機にさらされると忠清北道庁と韓国水資源公社側は清風が水没しても貴重な文化財を移転して清風の歴史をそのまま保存することにしました。考古分野の33点、歴史分野10点、仏跡5点など計48点と36件の有形文化財を移転、復元させ、昔の様子を忠実に再現して歴史文化教育場になっています。

清風文化財団地は1万6,428坪規模の宝物第528号である寒碧楼をはじめ、八詠楼、錦屏軒、錦南楼、凝清閣などの官庁建物と
宝物第546号である石造如来立像、清風郷校と古家が並んでおり、たくさんの生活用具も展示されています。
錦南楼
 忠清北道地方有形文化財第20号である錦南楼は朝鮮時代の純祖王治世25年目(1825年)、清風府使(官職名)の趙吉源
が建てた門楼で、 1870年当時の清風府使であった李稷鉉 が改築したと言われています。門楼の中央にある門は府使の出入り専用であり、両側の門は百姓が
出入りしました。構造は2階建ての木造りの瓦屋で、正面3間、側面2間、石造土壇八角高柱石の上に柱を立て、楼台を積み上げました。 2階の楼上には木造欄干を持ち,四隅に垂木が2段構えになっている軒をめぐらした楼閣です。1985年今の位置である清風文化財団地内に移転されました。
錦屏軒
 本来は明月亭
とも呼ばれた錦屏軒は朝鮮時代の楽宗王治世7年目(1681年)、当時の府使であった呉道一 が建てた清風府の東軒 (朝鮮時代の郡役所で、郡守が執務したところ)で、1726年に当時の府使、朴弼文
が錦屏軒に改名しました。扁額は権敦仁 が 書いたと言われています。忠清北道地方有形文化財第34号である錦屏軒の構造は正面6間、側面6間、建坪40坪の四隅に軒をめぐらした木造りの建物であり、
品のある優雅な姿を見せています。
所在地: 清風面 弥勒里
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